2015年03月12日 (木) | 編集 |
この時期は、どうしても、『3.11』 のことが多くなりますが

「その時、その時」 の大切だな~と感じたことに、ふれていこうと思ってます。



さてさて、

2015年、田老の3月11日は、宮古市の防災訓練のサイレンから始まりました。


午後1からは、田老公民館で、このブログでも紹介しました

『昭和8年三陸大津波と関口松太郎村長を語る』

の講演会を行いました。


資料作りを手伝っていると、今まで、関口村長のことや田老の歴史など、

何1つ知らなかったんだ、、、と反省したのと同時に、

ふるさとのことを学ぶ場・機会の無かったことにも気づかされました。



そうこうしているうちに、講演会の開始時間が迫ってきました。


しかし、、、来場者は、ポツリ、ポツリ


やはりまだ、関心は薄いのかな、、、

ま、何事も始めなければ進まない!

1歩1歩、コツコツだね~~~


なんて話していたら・・・



開始時間ギリギリになってから、だんだん来場者が増え始め、

結局、こんな感じに


講演中


その後、さらに増え、中には、関口松太郎村長の家の方もいらしていたと聞きました。
(関口村長は、宮古市花輪生まれ)

以下、資料から一部抜粋してみます。



・昭和8年3月3日午前2時31分、震度5の後、約30分後に大津波が田老のまちを襲った。


・津波の朝(3月3日)、村長 関口松太郎は、夜の明けやらぬ午前4時半、老躰をおして単身被害の跡を実見のうえ、県長官及び下閉伊支庁長宛、同文二通の救護を嘆願する文書を作り午前7時一夫を持って逸早く陸路急行させた。

・3月4日村会議員宛 非常災害応急対策に関する件で臨時議会を招集した

・内務省の指示は「復旧のためには高台に移れ」

・関口村長 「田老には郷土愛と恵まれた海がある」

        「漁師が高台に移っては仕事にならない第一そんな場所はない」

        「防浪堤だけではだめだ避難路がないから多くの犠牲者が出た。」
        と市街地計画も同時に始めることとした。


・「堅ろうなる防浪堤を適所に築造し安全なるをもって第一義とする」
   まさに百年の大計が始動した。
   これが防災の町 田老のメインである「防浪堤」構想のはじめである。



知れば知るほど、この迅速かつ的確な行動力や決断力に脱帽です・・・



携帯もネットも出回り、こんなに便利になった現代ですら、

てんてこてこまい・・・



いつの時代でも、常に備え、考えていることは必要でしょうが、

最終的に大切なのは、、、



様々な・駆使されたハイテクな物に頼るのではなく、


シンプルな 「感情」


「やる」 か 「やらないか」



ただ、それだけ、、、

日々、ただ、それだけでいいのかもしれない、、、



関口松太郎村長の生きざまに、少しではありますが、

ふれさせていただいた私の感じたことでした。



1人、1人、感じ方は全く違うと思いますので、


機会がありましたら、本物の 「関口松太郎村長」 の功績が無くなる前に、
(今、まちの再編により、大切な貴重な功績が無くなろうとしています。)


自らの目で確かめ、肌で感じてみてはいかがでしょうか?


以上で、講演会「昭和8年三陸大津波と関口松太郎村長を語る」の報告を終わります




























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